一体何があったのか
一体何があったのか。
2025年8月、天草を襲った豪雨の後、畑に足を踏み入れることができませんでした。私はしばらく声が出ませんでした。
土砂が流れ込み、畑への道を完全に塞いでいました。2日後、乾き始めた土砂を乗り越えて、畑に入りました。畑の一部も土砂が流れ込み、数本の木は押し倒されていました。実をつけたまま倒れている木もありました。10年近くかけて育ててきたデコポンの畑です。剪定の仕方、肥料のやり方、収穫のタイミング。ひとつひとつ、自分の手で覚えてきた木でした。
自然が相手の仕事だということは、わかっていたつもりでした。台風も、猛暑も、これまで何度も経験してきました。でも、目の前の光景は、これまでの「経験の範囲」を超えていました。
一体何があったのか。
その問いは、天候の話だけではありませんでした。自分の中で、何かが崩れていく感覚がありました。
あれから、ちょうど1年が経ちました。
「50年に一度」が「10年に一度」になっている
九州はもともと雨の多い地域です。それでも近年は、降るときと降らないときの差が、以前よりずっと激しくなっているように感じていました。
以前、地域の農業インフラについて書いたとき、天草は柑橘に適した気候だと述べました。それは今も変わりません。ただ、その「適した気候」の振れ幅そのものが、以前とは違うレンジに入ってきているのではないか。そんな肌感覚を、特にこの3、4年は強く感じていました。
「50年に一度の豪雨」という言葉を、ここ数年で何度耳にしたでしょうか。数字の上では「50年に一度」でも、体感としては「10年に一度」に近づいている。これは私だけの感覚ではないと思います。
永年作物、つまり一度植えたら何十年も付き合っていく果樹という選択は、本来、土地との長い信頼関係の上に成り立つものです。その信頼関係の前提そのものが、静かに揺らぎ始めている。そんな気がしています。
撤退は、敗北なのか
畑を見ながら、私はある決断を迫られました。
農道の回復、被害を受けた木を、時間とお金をかけて元に戻すのか。それとも、この畑という形そのものを、手放すのか。
正直に言うと、最初は「撤退」という言葉に強い抵抗がありました。10年やってきたことを、途中でやめる。それは負けたということではないか。そんな感覚が、頭のどこかにありました。
でも、少し時間をおいて考えてみると、違う見え方をしてくることに気づきました。
元航空会社にいた頃、私は経営企画という仕事もしていました。機材の導入や退役を判断するプロジェクトにも関わりました。古い機体を、いつまで飛ばし続けるか。それは感情の問題ではなく、安全性とコストと、その先の事業計画の問題でした。
「使い続けること」がいつも正解とは限りません。ときに、潔く手放すことのほうが、次の展開にとって合理的な判断になる。前職で叩き込まれた感覚が、この畑の前で、静かに戻ってきました。
前号で、使い古した針を供養する「針供養」という習慣について書きました。役目を終えた道具に感謝を捧げ、そこで区切りをつける。それは後ろ向きな諦めではなく、次に進むための、ひとつの作法だったのではないでしょうか。
畑を手放すという判断も、もしかすると同じことなのかもしれません。木や土に感謝しながら、その関係に区切りをつける。それは敗北ではなく、次の何かに向かうための、ひとつの通過点なのだと、今は思っています。
古い中国の兵法書に、「勇気ある撤退」という考え方があると聞いたことがあります。詳しく研究したわけではありませんが、この言葉だけは、ずっと頭に残っていました。撤退にも、勇気がいる。むしろ、続けることより難しい場合がある。畑の前に立って、はじめて実感として理解できた気がします。
乗るタイミング、降りるタイミング
決断の中身を、もう少しだけ。
振り返ってみると、私の農業は、はじめから「タイミング」に恵まれていました。脱サラして就農した頃、ちょうど産直ECのポケットマルシェや食べチョクが産声をあげたばかりでした。まだ「ノーコード」という言葉すらなかった時代に、Webサイトもオンラインショップも自分の手で作れるツールが、次々と出てきました。JAという既存の流通に頼らずに、個人で直接、消費者とつながる。そんな脱サラ就農のかたちが、ちょうど成立し始めたタイミングでした。
そこから数年後、コロナ禍がやってきました。皮肉なことに、通販という手段にとっては、一つのピークでした。市場や飲食店が休業する中、ネット経由の売上が支えになったのは、私の畑だけではなかったはずです。
そして今年、大手の直販プラットフォームがひとつ、静かにサービスを終了しました。それと重なるように、去年の豪雨被害があります。
参入のタイミングも良かった。撤退のタイミングも、今振り返れば、悪くなかったのかもしれません。
これは、運が良かっただけかもしれません。ただ、あえて言うなら、環境の小さな変化を肌で感じ取り、そのつど自分なりに判断してきた10年だった、とは言えると思います。神風が吹いたのではなく、たまたま準備ができていたところに、縁が来ただけなのかもしれません。
残すもの、手放すもの
もう一つ、正直に書いておきたいことがあります。
私が手放したのは、「生産のための農業」です。出荷を前提に、収量を追いかける畑です。一方で、収穫体験や農家民宿といった、人と直接関わる体験の場は、これからも残していくつもりでいます。
崇高な理由があるわけではありません。単純に、そちらの方が「やりたい」からです。
もともと私は、デスクワークが好きではありません。新卒でエンジニア職ではなく整備士を選んだのも、机に一日中向かう仕事を避けたかったからでした。その後、19年間、結局は管理部門・経営企画というデスクの仕事もしましたが、早期退職を考え始めたのは35歳の頃、実際に動いたのは45歳でした。10年かけて、ゆっくりと決めた選択でした。
土に触れること、天候に振り回されながらも自然のリズムの中で人と会うこと。それは、収益性だけでは測れない部分での、私にとっての「働くこと」の一部なのだと思います。生産的な農業を畳んだ今も、その部分だけは手放さない。それが、私なりのバランスの取り方なのかもしれません。
足元にあったものへ
そうして私は、この生産農業という形の多くを手放す決断をしました。
10年間、天候に一喜一憂しながら向き合ってきた柑橘の仕事は、私の中でひとつの区切りを迎えました。そして同じ頃、日本の真ん中の山里で、シルクに関わる仕事の話が、私のところに届きました。
偶然だったのか、必然だったのか。正直、まだうまく説明ができません。ただ、柑橘を育てていた10年間、自然のリズムに合わせて生きること、そして自然が思い通りにならないことの両方を、体で学んできました。その経験がなければ、今の仕事を引き受ける決断はできなかったと思います。
豪雨で全てが変わったわけではありません。ただ、あの日、畑に向かって感じた「一体何があったのか」という問いが、私にもうひとつの問いを連れてきました。
続けることだけが、大切にすることではないのかもしれません。
あなたの足元にある「貴いもの」を、あなたはどんな形で守っていますか。
221fabとオレンジの軽トラ
もうひとつ、この1年で起きた「偶然か必然か」わからない話を書かせてください。
このニュースレターや天草農工房ふぁおのブランドカラーは、アンバーゴールド(#fab221)と深い青(#221fab)です。実はこの数字、農園サイトのドメイン「fao-agro.biz」と、私の名字「筒井(ツーツーイ)」を組み合わせた、ただの語呂合わせから生まれました。深い意味は、後付けです。
ところが、このアンバーゴールドは、偶然にも「みかん色」に近い色でした。
先日、10年近く乗った軽トラを入れ替えました。新しい車も、もちろん「みかん色」に近いオレンジを選びました。柑橘農家として選んだ色が、たまたま自分のブランドカラーと重なっている。これも、偶然なのか必然なのか、正直よくわかりません。
余談ですが、日本の農道を走るこの小さな軽トラ、海外では「Kei Truck」としてカルト的な人気があるそうです。ニュージーランドにいる甥っ子から古い軽トラはどうした!?との問が来ました。日本の軽トラは古くてもニュージーランドでも人気で高く売れるらしいです。もっとも既に下取りに出していましたが。
私たちが「あたりまえの働く道具」だと思っているものに、外からの眼差しが価値を見出す。針供養や八百万の神の感覚と、どこか似た構造だと感じています。
証明はできません。普通のおじさんの都合のいい妄想です。でも私の中では、なぜか一本の線でつながっています。
Back to Japan #3
井上陽水「少年時代」(1990)
豪雨の夏、撤退へ道が見えた夏、そして次の季節へ。
今号を書きながら、ずっとこの曲が頭の中で鳴っていました。
🎵AppleMusic. 🎵 Spotify
追伸
この原稿を書いている最中、7月28日、熊本で最大震度7の地震がありました。天草も震度5でした。畑も、熊本の家族も、幸い大きな被害はありませんでした。
ただ、10年ほど前にもこの地域で大きな地震があったことを思うと、この土地でこれからどう暮らし、どう働いていくのか。まだ答えは出ていませんが、そんな問いが静かに胸の中に残っています。


