儚いのか、貴いのか
小学3年生のとき、クラスでカイコを育てました。
理科の授業ではありませんでした。ただ、クラスに蚕がやってきました。校庭にたまたま桑の木が一本あって、葉を摘んでは与えました。
蚕は糸を吐き、繭を作りました。
そして私たちは、待ちました。
やがて繭の中から、蛾が出てきました。繭を内側から破り、羽化しました。白い蛾は、しばらく生きて、卵を産んで、死にました。
繭は、もう糸としては使えませんでした。
あれから40年以上が経ちました。今、私は日本の真ん中の山里で、シルクに関わる仕事をしています。
シルク産業では、蛾は生まれません。
繭が完成したとき、蚕はまだ繭の中で生きています。その状態で繭を茹でます。蛾になる前に、命が終わります。解かれた一本の糸は、何百メートルにもなります。場合によっては、何百年も残ります。
小3の私が見届けたのは、繭を破って出てくる命でした。
今の私が関わっているのは、繭から生まれるものを届けるための仕組み作りです。
儚いのか、貴いのか。
正直、わかりません。
羽化した蛾の命も長くはありません。でも卵を残し、次の命につながります。茹でられた蚕の命は途絶えます。でも解かれた糸は、ずっと残るかもしれません。
どちらが正しいとは、私には言えません。
前号で、針供養の話を書きました。使い古した針を供養し、その働きに感謝を捧げる日本の習慣。「万物に神性が宿る」という感覚が、私たちの文化の底流にある——そんな話でした。
今もそれは変わりません。
ただ、お蚕さんを目の前にすると、その言葉がずっと重くなります。
神性が宿っているものを、人間はどう扱うべきか。どう扱っていいのか。
答えは、まだ出ていません。
57歳で新入社員になって、最初の仕事のひとつが、繭から生まれるものを届けるための仕組みを作ることでした。
かつて校庭の桑の葉を摘んでいた子どもが、今ここにいます。それが偶然とは、どうしても思えません。
選んできたのか、連れてこられたのか。その問いにも、答えはまだありません。
あなたには、儚いと思いながらも、貴いと感じるものがありますか。
その二つは、本当に矛盾しているのでしょうか。
「ITは頼むもの」という常識
Noteに、Webサイトのツール選びについての記事を書きました。
でも本当に書きたかったのは、ツールの話ではありません。
57歳で新入社員になって最初にやったことの一つが、Webサイトの仕組みをゼロから設計し直すことでした。
前職の農業時代から10数年、世界中のノーコードビルダーを自分の手と財布で試し続けてきました。失敗も、乗り換えも、何度も。細切れの時間で、コツコツと。そのトライアンドエラーの蓄積が、新しい仕事に就いた初日から、即戦力になりました。
創業者にこう伝えました。「制作会社に丸投げしていると、改善するたびに費用と時間がかかります。身動きが取れなくなります」と。
農業10年で骨身に沁みてわかっていたことでした。
元航空機整備士として叩き込まれた感覚があります。「自らメンテナンスできない、それは安全の観点から好ましくない」。Webサイトも事業も、同じだと思っています。
道具の主導権を自分の手に持つこと。それは、事業の主導権を自分の手に持つことと、同じ意味です。
ただ、これはなかなか日本では常識になっていません。
日本のIT人材は約7割がベンダー企業に所属し、ユーザー企業には約3割しかいない。アメリカはその逆で、IT人材の7割弱がユーザー企業に所属しています。
3年ほど前の調査ですが、「ITは作る側の専門家に頼むもの」という構造が長年続いてきた結果、中小企業経営者の70.6%がSaaSを「聞いたことがない」と回答しており、小規模企業でのSaaS導入率は6%にとどまっていた。この状況、今も大きくは変わっていないのではないでしょうか。だとすれば、それがAI導入の遅れにもつながっているのかもしれません。
「自分で選び、自分で組み立てる」という発想が、そもそも生まれにくい土壌になっているのだと思います。
海外からビジネスで日本に入ってくる方に、一つお伝えしたいことがあります。
欧米では当たり前のIT自走の感覚で踏み込むと、思わぬ沼にはまることがあります。それは能力の問題ではなく、長年積み上がった構造の問題です。
私自身は、10数年かけて積み上げた「道具を自分で選ぶ力」を、57歳の新入社員として持ち込みました。それが一番の武器になっています。
ツール選びの詳細はNote記事に書きました
Back to Japan #1
中島みゆき「時代」(1975)
儚いのか、貴いのか。今号を書きながら、ずっとこの問いが頭を離れませんでした。
答えが出ないまま、この曲を聴いていました。


